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1801 - 1899
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この期間は、オーストラリア大陸の探検全盛時代である。海岸線調査を行なった探検家は、Bassと Flindersであり、 内陸調査を行なった探検家は、Sturt、 Eyre、 Leichhardt、 Burke and Willis、 McDouall Stuart、 Forrestである。また、山賊(bushrangers)、 放浪者(overlanders)や不法土地占拠者(squatters)の時代であり、その中でもオーストラリアの歴史に残る有名な山賊は、 ネッド・ケリー(Ned Kelly)とビル・バックレー(William Buckley)である。
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1803
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マッセウ・フリンダ−(Mathew Flinders)がインベスゲーター号(Investigator)で初めてオーストラリア大陸の海岸線を周航する。
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1804
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ニューサウスウェールズ植民地のキャッスル・ヒル(Castle Hill)でアイルランド人流刑因による暴動が勃発
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1813
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ブルー マウンテンの難所を越え、西に入植開始
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1824
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イギリスは、大陸名をニューホーランド(New Holland)からオーストラリア(Australia)に変更
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1825
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ヴァン・ディーメンズ・ランド植民地は、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立。
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1829
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西オーストラリア植民地の設立
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1836
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南オーストラリア植民地の設立
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1841
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ニュージーランドは、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立
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1850
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ニューサウスウェールズ植民地に植民地初の大学としてシドニー大学を創立
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1851 - 1961
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ゴールドラッシュ「バララット(Ballarat)とベンデゴ(Bendigo)」
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1851
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ビクトリア植民地は、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立
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1855
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ビクトリア植民地は、自治政府を創設
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1856
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ニューサウスウェールズ植民地、南オーストラリア植民地とタスマニア植民地は、自治政府を創設
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1858
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人口が1788年から70年で百万人に到達
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1859
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クイーンズランド植民地は、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立し、自治政府を創設
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1787 - 1868
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大英帝国は、1787年から始めた流刑因の輸送を廃止
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1888
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万国博覧会をヨーロッパ人入植百年祭としてビクトリア植民地のメルボルンで開催。
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1890
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西オーストラリア植民地は、自治政府を創設
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1891
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不況を起因としてオーストラリア労働党(Australia Labor Party)の結成
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1894
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女性の選挙権・被選挙権が南オーストラリア植民地で認められる。(世界で最初?)
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1899 - 1901
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義和団事件(中国の外国排斥運動)に列強8ヵ国連合軍としてビクトリアとニューサウスウェールズ植民地から志願兵が参戦
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1899 - 1902
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南ア戦争(或いは、ボーア戦争)では、各植民地からの義勇兵が参戦
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1901
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1900年に大英帝国議会で成立し、王室の承認を得たオーストラリア憲法(Commonwealth Of Australia Constitution Act 1900 (UK))に基づいて1901年1月1日にシドニーのセントラルパークでオーストラリア連邦の成立を宣言する。オーストラリア憲法により、連邦議会(上院、下院の2院制)、総督府(王権の代行)、連邦高等裁判所が創設され、連邦政府と州政府の立法権限を分権すると共に首都の制定が決められた。6つの大英帝国の植民地が州としてオーストラリア連邦を構成(現在は、6州と2特別地域)。司法的には、オーストラリア連邦は、大英帝国内の自治領。
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1901
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移民制限法が成立し、白豪主義政策を開始
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1902
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オーストラリア連邦で女性の選挙権・被選挙権が認められ、最低賃金、障害者年金等も法制化され、近代国家へ
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1911
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オーストラリア連邦の首都をキャンベラ(Canberra)に決定。オーストラリア首都特別地域を創設し、オーストラリア連邦政府が直接統治。
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1914 - 1918
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第1次世界大戦では、アンザック軍(Anzac)をヨーロッパに派遣。アンザック軍は、1915年4月25日、連合軍と共にトルコのガリポリ半島(Gallipoli Peninsula)に上陸し、約8ヶ月の交戦で約8千人の戦死者と約2万人近い負傷者を出した後に撤退。4月25日は、アンザック軍の上陸記念と勇敢さが称賛され、アンザック・デー(Anzac Day)としてオーストラリアとニュージーランドの祝日になっている。アンザック軍とは、Australia New Zealand Army Corps(オーストラリア・ニュージーランド連合軍団)の頭文字である。Anzacビスケットは、戦場の兵士に送られた素朴なビスケットであり、アンザック・デーの祝日に食べる。日英同盟により日本とオーストラリアは同盟国となり日本海軍がアンザック軍を護衛。南太平洋では、対独戦で日本軍とアンザック軍が協力。
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1918
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人口が5百万人に到達
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1919
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国際連盟(League of Nations)の設立・加盟国(英連邦の一員として)
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1927
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タスマニア州の最後の先住民アボリジニが死亡
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1931
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オーストラリア連邦は、ウェストミンスター法(Statute of Westminster 1931 (UK))により大英帝国(the British Empire)から英連邦(the British Commonwealth of Nations)の一員になる。ウェストミンスター法は、1926年のバルフォア宣言に基づき、英連邦内の植民地と自治領は、英国の国王を英連邦の結合の象徴とし(王冠への忠誠)、即ち、君主を共有する主権国家であり、対等であることを確認した。ウェストミンスター法を受諾すると英連邦の自治領から独立国家になるがオーストラリア連邦に対して司法的な拘束力が存在。英国議会は、オーストラリア連邦の要請と同意によりオーストラリア連邦に対する立法権と州議会の立法権に対する拒否権を維持。
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1939 - 1945
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第2次世界大戦では、アンザック軍をギリシャ、クレーテ、北アフリカと太平洋諸島に派遣。
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1941
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第2次世界大戦によりイギリスからの国土防衛の支援を望めず、カーティン(Curtin)首相は、オーストラリア軍の一部をヨーロッパから撤退するとともにアメリカにオーストラリア大陸の防衛を訴願
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1942
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日本軍は、2月にノーザン・テリトリーのダーウインと西オーストラリア州のブルームを空襲。5月に特殊潜航艇部隊がシドニー湾でフェリーを撃沈。6月にシドニーとニューキャッスルの住宅地を艦砲射撃。キャンベラのオーストラリア戦争記念館にシドニー湾に張られた潜水艦進入防止網で捕獲した1隻の特殊潜航艇を展示。
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ウェストミンスター法受諾法(Statute of Westminster Adoption Act 1942)により英国のウェストミンスター法を受諾。オーストラリア連邦は、英国への植民地的な従属性から司法的に離脱を始める。連邦政府による税金徴収の開始。
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1944
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ロバート・メンジーズ(Robert Menzies)氏による自由党(Liberal Party)の結成。メンジーズ氏は、1939 - 1941と1949 - 1966に及ぶオーストラリア連邦の首相
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1945
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国際連合(United Nations)の設立・加盟国。国連憲章策定の主要メンバーのハーバート・エバット博士(Dr Herbert Vere Evatt)は、国連総会の初代議長。
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1945
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ニューサウスウェールズ州のカウラ捕虜収容所から日本人兵捕虜が集団脱走。カウラには、日本人戦没者霊園、日本庭園、文化センターがある
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1948
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国籍・市民権法 1948 (Nationality and Citizenship Act 1948)の成立により、翌年からオーストラリア連邦の国籍・市民権が確立。1948年までの移民は自動的にイギリス国籍・市民を取得。
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1948 - 1975
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この期間にヨーロッパ大陸から約2百万人が移住
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1950 - 1953
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朝鮮戦争では、オーストラリア軍を国連軍の一員として参戦
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1956
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オリンピック(1956 Olympic Games)をメルボルンで開催
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1959
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人口が1千万人に到達
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1962
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先住民アボリジニとトレス海峡諸島人が連邦選挙で選挙権を得る。
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1964 - 1972
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ベトナム戦争では、オーストラリア軍をアメリカ同盟軍の英連邦軍の一員として参戦。
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1966 - 1974
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この期間は、ポセイドン・ニッケル鉱山を典型とする地下資源ブーム。日本向け輸出用に炭鉱、鉄鉱石鉱山の開発ラッシュ。
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1966
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通貨は、イギリス・ポンドに代わる10進法に基づくオーストラリア・ドルを導入
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1967
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東南アジア諸国連合(ASEAN)の設立
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1967
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先住民アボリジニとトレス海峡諸島人は、オーストラリアの人口に算入され、国勢調査の対象にもなり、オーストラリア市民権を得る。
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1968
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枢密院法(Privy Council (Limitation of Appeals) Act 1968)により連邦高等裁判所は英国枢密院への上訴権を制限し、州高等裁判所は英国枢密院への上訴権を放棄する。
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1972
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先住民アボリジニは、首都キャンベラの国会議事堂前の階段に「アボリジニ・テント・大使館(Aboriginal Tent Embassy)」を設置し、土地権(land rights)、土地権に伴う鉱物資源の所有権とノーザン・テリトリーの自治権の返還を要求。
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1972
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白豪主義の廃止
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1973
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イギリスがヨーロッパ経済共同体(Common Market)に加入し,日本が1970年代にオーストラリア最大の貿易パートナーになる。
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1974
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オーストラリア労働党のウイットラム政府は、「白豪主義」政策を廃止。
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1975
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国家元首のエリザベス2世陛下が任命したオーストラリア連邦総督のジョン・カー(John Kerr)がウイットラム労働党内閣を罷免し、憲法危機が発生。
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1975
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国連から委任統治を委託されていたパプア・ニューギニア(Papua New Guinea)が独立
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1975
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マルコラム・フレーザー(Malcolm Fraser)を党首とする自由党(Liberal Party)が政権をオーストラリア労働党から奪取。
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1975
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枢密院法(Privy Council (Appeals from the High Court) Act 1975)により連邦高等裁判所は英国枢密院への上訴権を放棄。
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1976
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アボリジニ土地権利法 1976(Aboriginal Land Rights Act 1976)が成立。先住民アボリジニは、伝統的居住地を証明する証拠提出を条件に請求権の権利を獲得。
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1978
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ノーザン・テリトリー(北部準州)は、自治政府を設立
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1979
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ノーザン・テリトリーでウラン鉱山を開発
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1981
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人口が15百万人に到達
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1983
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オーストラリア労働党のボブ・ホーク(Bob Hawke)党首は、第1回国民経済サミットを開催。総選挙でフレーザー政府が敗北し、オーストラリア労働党のボブ・ホークが政権を取る。
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1986
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オーストラリ連邦議会と英国議会でオーストラリア法(Australia Act 1986、Australia Act 1986 (UK))が成立。オーストラリア法は、オーストラリアの主権と独立を確認。英国議会のオーストラリアに関する立法権の放棄、オーストラリアの州高等裁判所が英国の枢密院に対する上訴権の廃止、州総督の英国王権代行の廃止、英国議会の立法に対する州高等裁判所の撤廃権と修正権を認めることなどが含まれる。
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1987
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先住民アボリジニが聖地として崇めるエアーズ・ロックを含む1,325 km2に及ぶウルル国立公園の所有権が伝統的なアボリジニの所有者に返還され、ウルル国立公園は、オーストラリア国立公園・野生生物サービスに99年間の期限でリースされる。
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1988
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ヨーロッパ人入植200年祭を開催
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1989
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オーストラリア首都特別地域は、自治政府を創立
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1991
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オーストラリア労働党の党首は、ボブ・ホーク氏からポール・キーテング(Paul Keating)氏に交代し、ポール・キーテング党首が首相に就任
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1993
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先住権原法 1993 (Native Title Act of 1993)の成立。この法律は、アボリジニ土地権利法 1976(Aboriginal Land Rights Act 1976)とは異なり、オーストラリ大陸にヨーロッパ人が入植する前に居住していた先住民アボリジニとトレス海峡諸島人(Torres Strait Islander peoples)の権利を認める法律である。
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1994
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東南アジア諸国連合地域フォーラム(ASEAN Regional Forum(ARF))を創立
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1996
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オーストラリア労働党は、総選挙で自由党・国民党同盟に敗北。自由党のジョン・ハワード(John Howard)党首が首相に就任
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1998
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共和制導入についてのオーストラリア憲法会議をキャンベラで開催
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1999
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オーストラリア連邦総督を大統領にする共和制導入についての国民投票を実施。賛成45%、反対55%で否決。
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