オーストラリアの歴史

オーストラリア 歴史」は、「オーストラリア」の開設1周年記念の一つのプロジェクトとして2006年4月に管理人が更地からオーストラリアの歴史について編集を始めたが思いのほか年表作成に手間取っている。今後とも折をみてインターネット上で情報を収集しながら更新を続けたい。

■ オーストラリアの歴史

オーストラリア 歴史」は、オーストラリア大陸の形成、オーストラリア先住民の移住、ヨーロッパ人によるオーストラリア大陸の発見、大英帝国の流刑因の輸送、流刑植民地時代、オーストラリア連邦の独立、アボリジニ(オーストラリア先住民)の融和などオーストラリアの歴史を年表で表示する。

■ オーストラリア大陸の形成

6億年前
ゴンドワナ大陸(Gondwana)は、先カンブリア時代の終わり頃の約6億年に南半球に誕生し、現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸(オーストラリア・ニューギニア大陸やサフル大陸とも呼ばれる。)や、アラビア半島、マダガスカル島を含む超大陸であったと推定されている。

約1億6000万前頃のジュラ紀に現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸などを含む西ゴンドワナ大陸と、南極大陸、インド亜大陸、オーストラリア大陸を含む東ゴンドワナ大陸へと分裂したとされる。約1億4000万年前から6500万年前の白亜紀に東ゴンドワナ大陸は、インド亜大陸及びマダガスカル島と、南極大陸及びオーストラリア大陸の2つに分裂したとされる。

約6500万年前の新世代に南極大陸からオーストラリア大陸が分裂し、オーストラリア大陸が北上を始め、約5500万年前にオーストラリア大陸とニューギニアが分裂したとされる。約7万年前に始まり1万年前に終了した地球上の1番最近の氷河期には、海面が低下し、オーストラリア大陸とニューギニア周辺の大陸棚が一体化して誕生したサフル(Sahul)大陸と呼ばれる陸続きの亜大陸になった時期がある。海水面の位置が現在の位置に安定したのは約6千年前と推定され、その後、オーストラリア大陸は、現在の位置に孤立している。

■ 紀元前 50,000年頃

50,000 BC
オーストラリア大陸への最初の移住者であるオーストラリア先住民(アボリジニ)は、約5万年前頃に到着したと考えられている。この時期は、海水面が低く、オーストラリア大陸は、湿気のある気候で大きな動物が生息していたと推測される。
40,000 BC
西オーストラリア州スワン川上流で発見されたオーストラリア先住民(アボリジニ)の使用した道具の遺物がこの時代の物と推定され、最も古い。
25,000 BC
オーストラリア大陸の殆どの地域にオーストラリア先住民は住み着いたが約2万5千年前まで内陸の乾燥地域に移住しなかった。
10,000 BC
約1万年前にオーストラリア大陸の気候が暖かくなるにつれてオーストラリア先住民の人口増加も加速したと思われる。
8,000 BC
ニューギニアとオーストラリア大陸が海水の上昇により隔てられる。
6,000 BC
海水面が現在のレベルまで上昇する。
4,000 BC
ディンゴがオーストラリア大陸に到来。その後、多くの有袋類が絶滅する。
1788年、初代総督アーサー・フィリップ(Captain Arthur Phillip)が率いる第1船団(The First Fleet)がポート・ジャクソン(Port Jackson)に到着し、シドニー・コーブ(Sydney Cove)に上陸した時には、オーストラリア先住民の人口が約30万人で約250言語を話す部族が存在したと推測されている。

この頃、オーストラリア先住民の間に明らかな政治形態が存在しなかったためオーストラリア先住民の土地は、大英帝国に領地化された。これに伴い、オーストラリア先住民は、彼らの住居を追われ、多くは殺害された。また、ヨーロッパから持ち込まれた多くの疫病がオーストラリア先住民に伝染し、多くのオーストラリア先住民が死亡した。ヨーロッパの野生の動物と家畜の持ち込みは、オーストラリア大陸の自然生息形態を破壊する原因になった。

タスマニア島では、戦いにより純血のオーストラリア先住民が絶滅し、オーストラリア大陸のオーストラリア先住民の人口は、激減した。20世紀の始めにオーストラリア先住民を隔離し、保護する法律が成立した。この法律によりオーストラリア先住民の住む場所や働く場所が制約され、家族が離散することになった。

第2次世界大戦後、オーストラリア連邦政府は、ヨーロッパ人との同化政策を掲げ、オーストラリア先住民の全ての権利を剥奪し、オーストラリア先住民のヨーロッパ人化を進めた。

1960年代にオーストラリア連邦政府は、既存の法律を見直し、オーストラリア先住民に市民権を与える法律を成立させた。1972年にオーストラリア先住民が所有していた土地の部分的な土地権を返還した。オーストラリア先住民を取り巻く状況は、着々と改善されているがオーストラリア国民は更にすべきことが多くあると考えている。

■ 1世紀

1世紀
オーストラリアの国名が由来するラテン語のTerra Australis (叉は、 Terra Australis Incognita)は、「南の土地」(叉は、「南の未知の土地」)を意味する。アリストテレス( Aristotle)が南半球にも北半球と同じような大きな大陸が存在するという概念を述べている。1世紀には、古代ギリシャの地理学者のプトレマイオス(通称、 Ptolemy「トレミー」として知られる)は、その著書の「地理学」に球体である地球を展開して地図を描く方法を述べていて、ヨーロッパ、アジアからアフリカにまでいたる世界地図が添えられており、インド洋の南に陸があり、大陸と陸続きであるという概念に拡大した。註、「地理学」は古代地理学の集大成であり、ルネサンス期のヨーロッパで復活し、大航海時代の到来に大きな影響を与えた。

■ 15世紀

15世紀
ルネサンス時代の地理学者は、古代ギリシャ地理学者のプトレマイオスの著書「地理学」を情報源として当時の地図に南半球の未確認の大陸を作図し始めた。科学者は、北半球の大陸の重さと同じ重さの大陸が南半球の南極周辺にあると議論したがその地域は現在の太平洋にも及んだ。アベル タスマン(Abel Tasman)は、1642年に現在のニュージーランドを発見したがアフリカとオーストラリアの一部と想定していた。

■ 16世紀

1522
ポルトガル人探検家のメンドーサ(Mendosa)は、最初のオーストラリア大陸の発見者であり、ヨーロッパ人としてオーストラリア大陸南東海岸を探検し、現在のビクトリア州のウォーナンブール(Warrnambool)近辺で難破したとされるが、現在も、オーストラリア及びヨーロッパの歴史学者の間で意見が分かれ、議論が続いている。「ウォーナンブール 地図 航空写真

■ 17世紀

1606
オランダ人航海士・植民地総督のウイリアム・ヨンスゾーン(William Janszoon)は、1605年にニューギニアからデュイフケン(the Duyfken、小鳩)で出航し、アラフラ海の東側を南に縦断した後にカーペンタリア湾に入り、1606年にケープヨーク(Cape York)のペンネファーザー川(Pennefather River)付近に上陸した。オーストラリア大陸に上陸した最初のヨーロッパ人としての記録が残っている。ヨンスゾーンは、トレス海峡の存在を知らず、ニューギニアから陸が続いていると考えた。新しく発見した大陸をニュージーランド(Nieu Zelandt)と命名したが受け入れられなかった。「ペンネファザー川河口 地図 航空写真
ポルトガル人海洋探検家のルイス・トレス(Luis Va'ez de Torres)は、1606年にニューギニアとオーストラリア大陸を隔てる海峡を航海した最初のヨーロッパ人として記録に残っている。後にこの海峡は、トレス海峡と命名された。「トレス海峡 地図 航空写真
1642
オランダ人探検家アベル・タスマン(Abel Tasman)が現在のタスマニア島を発見し、ヴァン・ディーメンズ・ランド( Van Diemen's Land)と命名する。
1644
オランダ人探検家アベル・タスマン(Abel Tasman)が現在のオーストラリア大陸を発見し、ノバ・ホランディア(Nova Hollandia)と命名した。英訳するとニューホーランド (New Holland、新オランダ)である。イギリスがオーストラリアに変更するまで約150年間に亘りノバ・ホランディアが大陸名とした使用された。
1699
イギリス人探検家のウイリアム・ダンピア(William Dampier)は、現在の西オーストラリア州のシャーク湾(Shark Bay)のダーク・ハートグ島(Dirk Hartog Island)に上陸し、水を求め西オーストラリアの海岸線を北上し、測量を行なったが水を発見できなかった。

■ 18世紀

1770
英国人探検家キャプテン・クック(Captain James Cook)が1770年4月29日に、エンデバー号(HM Bark Endeavour)から現シドニー郊外のボタニー湾に上陸し、その後、東海岸をケープヨーク半島まで北上し、その一帯を「ニューサウスウェールズ(New South Wales)」と命名し、大英帝国の領有を宣言する。
1786
大英帝国の国王ジョージ3世は、ニューサウスウェールズを流刑植民地としての領有を宣言。
1788
初代総督アーサー・フィリップ(Captain Arthur Phillip)が率いる第1船団(The First Fleet)がポート・ジャクソン(Port Jackson)に到着し、1788年1月26日、シドニー・コーブ(Sydney Cove)に流刑囚778名、海兵隊とその家族約700名が上陸し、ニューサウスウェールズを大英帝国の流刑植民地にする。現在、1月26日は、オーストラリアの建国記念日になっている。

■ 19世紀

1801 - 1899
この期間は、オーストラリア大陸の探検全盛時代である。海岸線調査を行なった探検家は、Bassと Flindersであり、 内陸調査を行なった探検家は、Sturt、 Eyre、 Leichhardt、 Burke and Willis、 McDouall Stuart、 Forrestである。また、山賊(bushrangers)、 放浪者(overlanders)や不法土地占拠者(squatters)の時代であり、その中でもオーストラリアの歴史に残る有名な山賊は、 ネッド・ケリー(Ned Kelly)とビル・バックレー(William Buckley)である。
1803
マッセウ・フリンダ−(Mathew Flinders)がインベスゲーター号(Investigator)で初めてオーストラリア大陸の海岸線を周航する。
1804
ニューサウスウェールズ植民地のキャッスル・ヒル(Castle Hill)でアイルランド人流刑因による暴動が勃発
1813
ブルー マウンテンの難所を越え、西に入植開始
1824
イギリスは、大陸名をニューホーランド(New Holland)からオーストラリア(Australia)に変更
1825
ヴァン・ディーメンズ・ランド植民地は、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立。
1829
西オーストラリア植民地の設立
1836
南オーストラリア植民地の設立
1841
ニュージーランドは、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立
1850
ニューサウスウェールズ植民地に植民地初の大学としてシドニー大学を創立
1851 - 1961
ゴールドラッシュ「バララット(Ballarat)とベンデゴ(Bendigo)」
1851
ビクトリア植民地は、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立
1855
ビクトリア植民地は、自治政府を創設
1856
ニューサウスウェールズ植民地、南オーストラリア植民地とタスマニア植民地は、自治政府を創設
1858
人口が1788年から70年で百万人に到達
1859
クイーンズランド植民地は、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立し、自治政府を創設
1787 - 1868
大英帝国は、1787年から始めた流刑因の輸送を廃止
1888
万国博覧会をヨーロッパ人入植百年祭としてビクトリア植民地のメルボルンで開催。
1890
西オーストラリア植民地は、自治政府を創設
1891
不況を起因としてオーストラリア労働党(Australia Labor Party)の結成
1894
女性の選挙権・被選挙権が南オーストラリア植民地で認められる。(世界で最初?)
1899 - 1901
義和団事件(中国の外国排斥運動)に列強8ヵ国連合軍としてビクトリアとニューサウスウェールズ植民地から志願兵が参戦
1899 - 1902
南ア戦争(或いは、ボーア戦争)では、各植民地からの義勇兵が参戦

■ 20世紀

1901
1900年に大英帝国議会で成立し、王室の承認を得たオーストラリア憲法(Commonwealth Of Australia Constitution Act 1900 (UK))に基づいて1901年1月1日にシドニーのセントラルパークでオーストラリア連邦の成立を宣言する。オーストラリア憲法により、連邦議会(上院、下院の2院制)、総督府(王権の代行)、連邦高等裁判所が創設され、連邦政府と州政府の立法権限を分権すると共に首都の制定が決められた。6つの大英帝国の植民地が州としてオーストラリア連邦を構成(現在は、6州と2特別地域)。司法的には、オーストラリア連邦は、大英帝国内の自治領。
1901
移民制限法が成立し、白豪主義政策を開始
1902
オーストラリア連邦で女性の選挙権・被選挙権が認められ、最低賃金、障害者年金等も法制化され、近代国家へ
1911
オーストラリア連邦の首都をキャンベラ(Canberra)に決定。オーストラリア首都特別地域を創設し、オーストラリア連邦政府が直接統治。
1914 - 1918
第1次世界大戦では、アンザック軍(Anzac)をヨーロッパに派遣。アンザック軍は、1915年4月25日、連合軍と共にトルコのガリポリ半島(Gallipoli Peninsula)に上陸し、約8ヶ月の交戦で約8千人の戦死者と約2万人近い負傷者を出した後に撤退。4月25日は、アンザック軍の上陸記念と勇敢さが称賛され、アンザック・デー(Anzac Day)としてオーストラリアとニュージーランドの祝日になっている。アンザック軍とは、Australia New Zealand Army Corps(オーストラリア・ニュージーランド連合軍団)の頭文字である。Anzacビスケットは、戦場の兵士に送られた素朴なビスケットであり、アンザック・デーの祝日に食べる。日英同盟により日本とオーストラリアは同盟国となり日本海軍がアンザック軍を護衛。南太平洋では、対独戦で日本軍とアンザック軍が協力。
1918
人口が5百万人に到達
1919
国際連盟(League of Nations)の設立・加盟国(英連邦の一員として)
1927
タスマニア州の最後の先住民アボリジニが死亡
1931
オーストラリア連邦は、ウェストミンスター法(Statute of Westminster 1931 (UK))により大英帝国(the British Empire)から英連邦(the British Commonwealth of Nations)の一員になる。ウェストミンスター法は、1926年のバルフォア宣言に基づき、英連邦内の植民地と自治領は、英国の国王を英連邦の結合の象徴とし(王冠への忠誠)、即ち、君主を共有する主権国家であり、対等であることを確認した。ウェストミンスター法を受諾すると英連邦の自治領から独立国家になるがオーストラリア連邦に対して司法的な拘束力が存在。英国議会は、オーストラリア連邦の要請と同意によりオーストラリア連邦に対する立法権と州議会の立法権に対する拒否権を維持。
1939 - 1945
第2次世界大戦では、アンザック軍をギリシャ、クレーテ、北アフリカと太平洋諸島に派遣。
1941
第2次世界大戦によりイギリスからの国土防衛の支援を望めず、カーティン(Curtin)首相は、オーストラリア軍の一部をヨーロッパから撤退するとともにアメリカにオーストラリア大陸の防衛を訴願
1942
日本軍は、2月にノーザン・テリトリーのダーウインと西オーストラリア州のブルームを空襲。5月に特殊潜航艇部隊がシドニー湾でフェリーを撃沈。6月にシドニーとニューキャッスルの住宅地を艦砲射撃。キャンベラのオーストラリア戦争記念館にシドニー湾に張られた潜水艦進入防止網で捕獲した1隻の特殊潜航艇を展示。
ウェストミンスター法受諾法(Statute of Westminster Adoption Act 1942)により英国のウェストミンスター法を受諾。オーストラリア連邦は、英国への植民地的な従属性から司法的に離脱を始める。連邦政府による税金徴収の開始。
1944
ロバート・メンジーズ(Robert Menzies)氏による自由党(Liberal Party)の結成。メンジーズ氏は、1939 - 1941と1949 - 1966に及ぶオーストラリア連邦の首相
1945
国際連合(United Nations)の設立・加盟国。国連憲章策定の主要メンバーのハーバート・エバット博士(Dr Herbert Vere Evatt)は、国連総会の初代議長。
1945
ニューサウスウェールズ州のカウラ捕虜収容所から日本人兵捕虜が集団脱走。カウラには、日本人戦没者霊園、日本庭園、文化センターがある
1948
国籍・市民権法 1948 (Nationality and Citizenship Act 1948)の成立により、翌年からオーストラリア連邦の国籍・市民権が確立。1948年までの移民は自動的にイギリス国籍・市民を取得。
1948 - 1975
この期間にヨーロッパ大陸から約2百万人が移住
1950 - 1953
朝鮮戦争では、オーストラリア軍を国連軍の一員として参戦
1956
オリンピック(1956 Olympic Games)をメルボルンで開催
1959
人口が1千万人に到達
1962
先住民アボリジニとトレス海峡諸島人が連邦選挙で選挙権を得る。
1964 - 1972
ベトナム戦争では、オーストラリア軍をアメリカ同盟軍の英連邦軍の一員として参戦。
1966 - 1974
この期間は、ポセイドン・ニッケル鉱山を典型とする地下資源ブーム。日本向け輸出用に炭鉱、鉄鉱石鉱山の開発ラッシュ。
1966
通貨は、イギリス・ポンドに代わる10進法に基づくオーストラリア・ドルを導入
1967
東南アジア諸国連合(ASEAN)の設立
1967
先住民アボリジニとトレス海峡諸島人は、オーストラリアの人口に算入され、国勢調査の対象にもなり、オーストラリア市民権を得る。
1968
枢密院法(Privy Council (Limitation of Appeals) Act 1968)により連邦高等裁判所は英国枢密院への上訴権を制限し、州高等裁判所は英国枢密院への上訴権を放棄する。
1972
先住民アボリジニは、首都キャンベラの国会議事堂前の階段に「アボリジニ・テント・大使館(Aboriginal Tent Embassy)」を設置し、土地権(land rights)、土地権に伴う鉱物資源の所有権とノーザン・テリトリーの自治権の返還を要求。
1972
白豪主義の廃止
1973
イギリスがヨーロッパ経済共同体(Common Market)に加入し,日本が1970年代にオーストラリア最大の貿易パートナーになる。
1974
オーストラリア労働党のウイットラム政府は、「白豪主義」政策を廃止。
1975
国家元首のエリザベス2世陛下が任命したオーストラリア連邦総督のジョン・カー(John Kerr)がウイットラム労働党内閣を罷免し、憲法危機が発生。
1975
国連から委任統治を委託されていたパプア・ニューギニア(Papua New Guinea)が独立
1975
マルコラム・フレーザー(Malcolm Fraser)を党首とする自由党(Liberal Party)が政権をオーストラリア労働党から奪取。
1975
枢密院法(Privy Council (Appeals from the High Court) Act 1975)により連邦高等裁判所は英国枢密院への上訴権を放棄。
1976
アボリジニ土地権利法 1976(Aboriginal Land Rights Act 1976)が成立。先住民アボリジニは、伝統的居住地を証明する証拠提出を条件に請求権の権利を獲得。
1978
ノーザン・テリトリー(北部準州)は、自治政府を設立
1979
ノーザン・テリトリーでウラン鉱山を開発
1981
人口が15百万人に到達
1983
オーストラリア労働党のボブ・ホーク(Bob Hawke)党首は、第1回国民経済サミットを開催。総選挙でフレーザー政府が敗北し、オーストラリア労働党のボブ・ホークが政権を取る。
1986
オーストラリ連邦議会と英国議会でオーストラリア法(Australia Act 1986、Australia Act 1986 (UK))が成立。オーストラリア法は、オーストラリアの主権と独立を確認。英国議会のオーストラリアに関する立法権の放棄、オーストラリアの州高等裁判所が英国の枢密院に対する上訴権の廃止、州総督の英国王権代行の廃止、英国議会の立法に対する州高等裁判所の撤廃権と修正権を認めることなどが含まれる。
1987
先住民アボリジニが聖地として崇めるエアーズ・ロックを含む1,325 km2に及ぶウルル国立公園の所有権が伝統的なアボリジニの所有者に返還され、ウルル国立公園は、オーストラリア国立公園・野生生物サービスに99年間の期限でリースされる。
1988
ヨーロッパ人入植200年祭を開催
1989
オーストラリア首都特別地域は、自治政府を創立
1991
オーストラリア労働党の党首は、ボブ・ホーク氏からポール・キーテング(Paul Keating)氏に交代し、ポール・キーテング党首が首相に就任
1993
先住権原法 1993 (Native Title Act of 1993)の成立。この法律は、アボリジニ土地権利法 1976(Aboriginal Land Rights Act 1976)とは異なり、オーストラリ大陸にヨーロッパ人が入植する前に居住していた先住民アボリジニとトレス海峡諸島人(Torres Strait Islander peoples)の権利を認める法律である。
1994
東南アジア諸国連合地域フォーラム(ASEAN Regional Forum(ARF))を創立
1996
オーストラリア労働党は、総選挙で自由党・国民党同盟に敗北。自由党のジョン・ハワード(John Howard)党首が首相に就任
1998
共和制導入についてのオーストラリア憲法会議をキャンベラで開催
1999
オーストラリア連邦総督を大統領にする共和制導入についての国民投票を実施。賛成45%、反対55%で否決。

■ 21世紀

2000
オリンピック(2000 Olympic Games)をシドニーで開催。アボリジニの女子陸上選手キャシー・フリーマン(アトランタ400m銀メダリスト、ゴールドメダルを獲得)が聖火点火ランナーとなり、オーストラリアの多民族・多文化国家を世界にアピール。
2001
オーストラリア連邦創立100周年祭を開催
2001
アフガニスタン戦争に参戦
2003
イラク戦争に参戦
2004
人口が20百万人に到達(推定)
2005
イラク駐留の自衛隊護衛のためオーストラリア国防軍を追加派兵
2007
総選挙で自由党・国民党同盟が敗北。労働党のケビン・ラッド(Kevin Rudd)党首が首相に就任
2008
ケビン・ラッド首相、オーストラリア先住民に対して隔離・同化政策を公式に謝罪


オーストラリア

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オーストラリア 首都
オーストラリアの都市について

州と特別地域地域

クイーンズランド州 - QLD
ニューサウスウェールズ州 - NSW
オーストラリア首都特別地域 - ACT
ビクトリア州 - VIC
タスマニア州 - TAS
北部準州 - ノーザンテリトリー、NT
南オーストラリア州 - SA
西オーストラリア州 - WA
その他特別地域 - Territories

主要な都市と観光地

ケアンズ
グレートバリアリーフ
サンシャインコースト
ブリスベン
ゴールドコースト
シドニー
キャンベラ
メルボルン
ホバート
ダーウイン
エアーズロック(ウルル)
オルガ渓谷・カタジュ
アデレ−ド
パース
■ ・・・主要な都市と観光地の続きは、サイトマップを参照。

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